平成21年11月3日の秋の叙勲で、応用化学会会員である木村茂行氏が瑞宝中綬章を受章いたしました。
木村氏からメッセージをいただきましたので掲載いたします。
平成21年秋の叙勲の栄に浴したことは、全く皆様のお陰としか考えられない。大学や職場での様々な方々との出会いが、この栄誉に繋がっており、お一人々々に御礼を申し上げたい。
今回の瑞宝中綬章は科学技術庁管轄下の無機材質研究所の所長を3年程務めたのが直接の経緯と考えられるが、そこに到るまでの道筋を振り返ってみると、実に多くの皆様の善意と思いも寄らない幸運とがあったことが痛感される。
昭和45年に科学技術庁の無機材質研究所に就職した時、所長になることなど考えられなかった。研究をして給料を頂けるだけで非常に有難いと思った。しかし考えるまでもなく、国立研究所の仕事は、国民からの付託。何か成果を出さなくてはならない。様々な経緯があったが、黎明期にあった光通信技術に不可欠の光アイソレータの部品として使われるイットリウム鉄ガーネットや光学用ルチルの単結晶合成技術の開発などの成果を挙げることができ、これが当時の新技術開発事業団(現在の科学技術振興機構の前身の一部)の創造科学推進事業(ERATO)の1プロジェクトとして採用される契機となった。
都の西北と留学筆者は昭和38年に応用化学科を卒業した。卒業研究では大坪先生のご指導を頂いた。大学院進学熱が比較的高い同期生の中で、自分も、と思ったが学資に困った。授業料が少ない国立の東工大修士課程に進み、分析化学教室の桂敬(かつら・たかし)教授(当時は助教授)に師事した。修士課程が終ったら博士課程の学費は50%アップという。アルバイト強化で対応か、と考えていたら、桂先生が米国留学のご示唆を下さった。授業料は免除の上、給料までくれるという。信じられなかったが、アメリカでならありそうな話にも思えた。当時のアメリカは輝いていた。
米国と世界文化、そして国内人脈形成ペンシルバニア州の中央部にある同州立大学が留学先である。ここで3年3ヶ月間博士課程をすごした。授業料免除で給料が出た。驚きの世界だったが、世界のあらゆる文化が混ざり合っていた。寄宿舎ではフィリピン人と同室、研究室ではギリシャ人といつも行動を共にした。師事したのはA.Muanというノルウェー出身の教授で、鉄鋼関係の基礎研究で知られるが、本業は鉱物化学。アメリカ鉱物学会の会長も務められた。ここでの修学経験は個人的に目から鱗だった。セラミックス関連の世界に知られた研究施設があり、各国のトップクラスの研究者が頻繁に来訪し、魅力的な講演会が目白押しだった。日本からの著名な研究者も来訪し、何度か空港まで送迎をさせて頂いた。これが帰国後の人脈形成に繋がった。
ベル研究所での企業体験博士課程修了後、ベル電話研究所に就職できたのは研究室の先輩のお陰である。当時、日本人も何人か滞在しておられたが、超一流の科学者ばかり。ここで半導体結晶成長(今考えれば恐れ多い目標だったが、青色発光ダイオードの開発)、各分野での先端科学の動向、企業での研究者のトレーニングと評価方法、そして企業の研究者は何をすべきか、ということなどを勉強した。多くの方々のお世話になった。わずかな期間とは思えないほどの体験があった。
1年半経って、ビザの種別変更の期限が来た。それまでは学生ビザだった。勤務先の推薦書を必要としたが、ベル研究所は好意的だった。しかし一方で人生計画の岐路でもある。帰国か在留かで迷った。当時、米国はベトナム戦争に行き詰まり、先が見えない状況だった。日本は日の出の勢い。無機材質研究所の中平光興先生からの勧めも後押しになった。迷った末に帰国を決めた。無機材質研究所への奉職まではこのような経緯があった。
退官後2002年から(社) 未踏科学技術協会で理事長を務めることになったが、これも関係者諸氏のお陰である。今後も皆様のお陰を受けることになろうかと思うと恐縮の毎日である。感謝申し上げたい。
平成22年2月9日、都内某所にて新制13回卒の同期有志による叙勲祝賀会を開き、木村茂行君から授章式の様子や裏話をご披露していただき、また、閉会後、お心遣いのお品を頂戴して楽しいひとときを過ごすことができました。当日、彼が持参した賞状と勲章並びに出席者全員の写真を紹介します。
賞状と喜びの受章者 | 瑞宝中綬章 |
祝賀会出席者 |